「四十九日」と心の移り変わり

LOGS

父の四十九日法要を終えた。

3月の命日から率先して、実家を手伝い、葬儀やら片付けやらやってきたつもりだけど、結局のところ、妹の方が断然気が利くので、この不出来な兄は、とりあえず車の運転と荷運びで、何とか埋め合わせした、という体たらくであった。

さて、四十九日の法要と聞いて「法事」だな、と思う程度にしか知識が無く(仏教系の学校出身なのに)、かつ近親者の通夜~告別式~四十九日など、実のところこれまで全く経験してこなかった(正しくは、祖母の葬儀が中学/高校の時分にあったはずなのだが、正直全く思い出せない…)ので、ほぼやることなすこと、戸惑いだらけだった。喪主である母をどうにか手伝う(前述の車とか荷運びとか)程度にしかできなかったのがちょっと反省である。

去年の夏、父が「(自分の死後の手続き等は)大体のことで出来ることはやっておく。もう俺はそういうの、4回もやっているんだから。」とちょっと自嘲気味で、かつ自信あり気に言っていた父を今でも覚えている。考えてみれば、まぁそうか。自身の父母(義父母含め)関係でやってたんだろうからそうなんだけど…ん?そうなると俺の機会は減るんだけどなぁ…まぁ、軽々しく経験したいものでもない。その時になるまでにちゃんと学んでおこう。不出来な息子ですまない。

さて個人的かつ感傷的なお話は、この辺りで。今回、書き留めておきたいなと思ったのはこの「四十九日」。

そもそも四十九日の法要ってなんだろかね?と調べてみると、「故人の生前の行いを裁く審判を7日ごとに行って云々」と、まぁ仏教系の知識をかじるなり、車田正美マンガをかじっていれば出てきそうな言葉がちらほら。まぁそれはそれで興味深いのだけど、こちら側の生きてる人間にしてみれば、1週間ごとにわりと気持ちの整理を段階ごとにしていくための期間なんじゃないかと、ぼんやり。ジャスト1週間で切り替わるわけでは勿論ないけれど、1週間ごとの移り変わりを、自分なりに振り返ってみた。

1週間目「忙」

父の告別式は初七日法要と同時で、それまでにできることを色々やりながら、一旦仕事に出て区切りをつけたりして忙しいかった。「心を亡くす」とはよく言ったもので「悲しい」と「忙しい」が同時にあった感覚でした。告別式の日までが「1日分」のような感覚で寝てもあんまり寝た感じがしなかった時期でも。

2週間目「悔」

告別式が終わり、会社にも出るようになって(即社内一大イベントやら、子どもの卒業式があって、こちらも忙しかったのだが)「もっとああすれば良かったかな」「こうすればもっと話せたかな」という後悔の念が来た頃。今となっては今更なのだけども。うん。自分が生まれる前の父の音を聴いてみたい、と思ったのもこの頃だ。お通夜に来てくれた父の音楽仲間の皆様に、もう少し話が出来ればよかったなぁ(当日そこまで気が回らなかった…)

3週間目「戻」

色々なイベントごとが重なったものの、ようやく日常生活もこなさないとなぁ、と思い始めてきた頃。勿論四十九日に向けての準備で、前泊にするかしないか等を決めたのもこの頃だったと思う。とりあえずの日常。

4週間目「悲」

でもやっぱり悲しいんだよね。俺は父にべったり、というわけではなかったけど(10代の頃は、厳しかったし)、いろんな面で世話になったし、感謝すべきことは沢山ある、もっと伝えておくべきだったなぁ、と、伝えらえれないのは悲しいなぁ、と改めて思ったのがこの頃だろうか。命日からずっと悲しい想いは通奏低音としてあるのだけど、改めてこの時期は「悲」の感情が多かったように思う。

5週間目「決」

強い意味の「決定」のようなものではなく、ちゃんと生活しよう、というちょっとした一歩を踏み出す程度の「決心」。周囲の状況も一変して、同僚の異動、子どもの新学期、どうあっても攻め入ってくる日常に身を戻すのだ、父との対話は毎日曜日に実家に戻ったときにすればよろし、と思い始めた頃だろうか。

6週間目「返」

もうここまで来ると、日常に戻る雰囲気でいるのだが、やっぱり名残惜しいのは確かで、昔のこととか振り返ったり、思い出したり改めてしてみる、そんな時期。日常の中で思い出して、懐かしいとか、ちょっと胸が苦しくもなるけど「まぁ生活に支障なし、あなたの息子はとりあえず前の通り生活できているよ。」と言える程度には、普段の生活に溶け込んでいくような感覚。

7週間目「戻・再」

さて、もう日常に戻る準備、法要の準備やでー、と、慌ただしく車を用意し、荷物を詰め、いざお墓のある土地へ、と息巻いて向かうための準備タイムに心がなっていた時期。当日はさておきとして、そういう日常への回帰を改めて意識した時期で、正に「今」である。

お寺さんとか土日の関係で、これを書いている段階で正しく49日が過ぎているわけではないし、心の移り変わりもスパスパ切り替わったわけではなくグラデーションが多分にあるのだけど、改めて日常に戻る通過儀礼のような、そんな四十九日だった。昔の人の生活の知恵(宗教的要素は勿論多分にあるのは承知だが)の一つだったんだろうなぁ、等と。

漢字に当て嵌めたのは自分の感情を整理するためで、告別式・初七日を終えたあたりで「1週間ごとに何か心象が違うのだろうか」と思って、少し書き留めておいた。と言っても頭の中だけだったので、今改めて文字にしてみた、というわけだ。

何にせよ、これで初盆等の法要まで、しばらく空きがあるので、自分の心の動きに気づきがあったら、書き足すかもしれない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました